自分らしくないものができあがると楽しい

またもや昼ごろ起床.

昨日 H 研究室に呼ばれた時に,失踪した某人についての話がでていた.係についてはよく知らないが,研究室からいなくなったことについて,自分に落ち度があるのかないのかよくわからない状態で色々いうのもどうかと思って,特に擁護も批判もできぬ….が,自分には大きな落ち度はないと思う.思いたい.

ただ,自分について色々考えてみると,まあ反省しなきゃいけないことは多いと思う.基本的にはみんな気持ちよく「良い研究」ができるのが一番良いと思うから.でも,気持ちよく仕事をすることと,良い仕事をすることがトレードオフになることは世の常だし,その解決策はチームにより様々だし,案件毎に色々悩むものなのだろうし,そうする他ないのだろう.

閑話休題.後輩と話していて面白かったことについてまとめておく.

私は昔書道を割と真面目にやっていたのだけども,臨書にしろ創作にしろ,「自分らしくない」作品ができた時が一番楽しかったのを覚えている.出来上がった作品を見ても,とても自分が書いたように思えないが,でも自分の意図がきちんと作品の中に反映されている.

風邪引いた時,ちょっと鼻声になったりして「いつもと違う雰囲気の声」になるけど,あれがなんか良いなと思う感覚に似ている気がする.

小学校の時の習字の時間で,今でも覚えている話がある.教科書のお手本をなるべく上手に真似しようとしていたら,先生に「もっと元気よく書いて見たら」と言われた.もっと元気よく書いたら教科書から離れるだろう,と思ってだんだんムカついてきて,バカみたいにぶっとい線で書いて遊んでみたことがあった.出来上がった作品は,それはもう黒々とした何かで,もちろん俺は「あっはっは,ほらみろ,元気よく書いたてみたらお手本とは似ても似つかない何かになったべさ」と思ったのだが,先生には「あ,それが一番いいよ」と言われて,「何を言ってるんだこいつは」と思った.まあでも先生が言うなら,と,結局その作品を提出したのである.

んで,後日,そのぶっとい黒々とした作品が教室前の廊下に貼られているのを見て,「あー,そういえばこれ俺が書いたんだっけ,確かにいいわ,これ」と改めて思ったわけである.なんだか自分が書いたように思えない.けれども,これが表現の幅が広がるということなのか,と.要するに,今後,そういう太い線が自分の創作の中で使えるようになるじゃん.

およそ創作と呼びうるものは,そういう出力とのインタラクションのなかで「自分らしさ」というものの厚みとか,幅が広がって行くのだと思うよ.今ある「自分らしさ」で塗り固めた作品も良いかもしれないが,外界との風通しが良い作品の方が,表現に必然性を産むし,一周回って愛着が湧くのかもしれない1

と思うと,じゃあ人工知能が何かを表現・学習するとはどういうことだろうね,と思う.あるいは,人間の創作のプロセスの中に人工知能が入るとしたらどういう余地があるかね,あるいは,どうやって入り込んで行くと人間は幸せになれるかね,と思う.

人工知能は画風を学習したりすることができるようになったが,それは人間が「自分らしさ」の厚みを増して行くプロセスと同じと見做しうるだろうか? 正直なことを言うと,自分にとってかなり興味深い問題でありながら,まったく論じる題材がない.人工知能のほうの仕組みも実は私は全然理解していないのだが,一方で,人間の方の認知的な仕組みも理解していないし,生きている間に理解できるとも思えない.

んまあ,人工知能というと,やれ仕事が奪われるとか,やれ支配されるとか言うわけだけれども,そうではなくて,人工知能とのインタラクションのなかで,人間の認知の不思議を内省的に理解していくことができれば良いと思うよ.それは非常に明るいというか,魅力的な未来な気がするんだけどねえ.

閑話休題.ネットが死んだ時に,近くの研究室などに「ネット死んでませんか?」と確認しに行くのは,なんだか昭和のドラマでよくあるような醤油を借りに行くシーンみたいで,ちょっと楽しい.


  1. 「およそ創作と呼びうるものは」といったけど,冷静に考えてみると,これは書道特有の事情であって,白い部分は白い絵の具で塗りつぶすような絵画の世界になると,また状況は少し変わってくるのかもしれないなと思う.彫刻や絵画など,基本的には細部までコントロールするのが前提の芸術と,音楽や書道のように一回性を重視して細部の偶然をも楽しむような芸術があるのではないだろうか.